生きていると、顔を知っている程度の知人が死ぬことが結構ある。
例えば、中・高の同級生の米山君は、一人暮らしをしていたアパートのベットのなかで変死していたらしい。
例えば、中学のときの山田牧師は、車にはねられて側溝に落ちたまま、奥さんに「迎えに来てくれ」と電話して、奥さんが着いた頃には亡くなっていたらしい。
そういう話を聞いたとき、その人の顔を思い出そうとするのだけど、うまく思い出せないことが多い。そして、米山君の顔は、サンボマスターの眼鏡の人に、山田牧師はポール牧として勝手に記憶したりするのだ。(たぶん、だいたいそんな顔だったと思う)
きっと自分も死んだときに、そんな風にあいまいな人として、忘れられていくのだろうなあと思う。それに対しては、あきらめているけど、なんだか寂しい。
先週の日曜日、野田秀樹の舞台をみにいった。人になにかを残せる人は、こういう人なんだと思って、自分が何かを書こうとしていることがおこがましく思えて、ふらふら渋谷を歩いたのです。
喪服にて膝をこすりあわせていれば汗ばむ脚がある 積乱雲